殺されないための敬礼(シンドラーのリスト)
先日「シンドラーのリスト」という映画を観てて、序盤の方でドイツの親衛隊(SS)がゲットー(ユダヤ人居住地区)を解体する場面で
若いユダヤ人の男の人が逃走中にドイツの親衛隊(SS)に見つかって、殺されないために精一杯緊張させた敬礼をする場面がある。(そのユダヤ人の姿をSSはあざ笑い、見逃す)
その場面を観た時、自分の中学・高校時代を思い出した。先輩後輩の上下関係、特に部活動において。ものすごく怖くて、絶対服従してた僕の姿が、そのユダヤ人の場面と被って見えた。
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家庭という、自分を守り認めてくれる“母体”があるのと無いのでは、その部活動のようなシビアな環境での“生き心地”は大きく異なる。
嫌なら辞めていいよとか、怖い先輩だねとか、楽しくないなら辞めようかなとか、そういう“自分”という居場所が心の中にあるか無いか。それのある・なしで、同じ環境でも味わう体験・見えてる景色は大きく違うのだろう。
それがある人は、そういう環境で表向き服従したり上下関係に従うことはしても、魂まで売らなくても済むというか。僕がしていたことは魂まで献上していたというか。「殺さないでくださいどうか命だけは」とね。心の底から迎合・服従してた。
(これは自殺する人としない人の境界線でもある気がする。母体がない人はそこでダメだったら死ぬしかないという発想になりうる)
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だからだろうね、権力者や強者に屈伏せず、自分を貫き通せていたり、のほほんとした自分のまま堂々といられるような人やモノを見ると悔しくて許せなくて、ものすごい怒りが沸いてくるのは。
前も書いたけど、「僕はあんなに命がけで服従してきたのに!どうしてアイツらは処刑されないの!」という怒り。
自分の中のそんな怒りといつも付き合ってます。
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映画「シンドラーのリスト」は、これまでも何度か観ていますが、とても良い映画だと思うし面白さ(「愉快さ」ではなく見応えという意味で)もあります。おススメです。