“正当に怒れる場面”をむしろ待ち望んでいる
怒りをため込んでいる人は、“自分が正当に怒れる場面”をむしろ待ち望んでいる。「待ってました」と言わんばかりに。
そしてその場面に遭遇した時、それまでの鬱憤を乗せて対象へ叩き込むので、対象にされた人はものすごくびっくりする。「なんでこの人こんなに怒っているの?私そこまで怒らせることした?」となる。相手の怒り具合に驚く。
あおり運転もそのケースがほとんどだと思っていて、それを正義感の暴走などと呼んでいいはずがない(逮捕された人がそういう言い訳をしていた)。
この話の中で正義を持ち出すのなら、これまでのどんな不幸な境遇だろうと目の前の相手には1mmも関係ないという事実を認めて、その怒りをその相手に向けないことである。
正当に怒れる場面を待たなくても
自然に、感情のままに感情を出せていたら、“怒りたい時に怒れていたら”こんなことにはならずにすんだのに
だから、正当に怒れる場面でそれまでの怒りを便乗させて怒りたい人は、ある意味可哀想なのである。
もちろん、ぶつけられた相手はそんなこと微塵も思わないし完全に被害者なことは間違いなく。
怒りをキチンと正しくごまかさず吐き出せてきた人って、もしかしたら少ないのかもしれない。その比率なんて分からないけど、昔よりもそういう“怒りの迷子”な人が増えてきてる気がする。
怒りの迷子
自分はなんでこんなに怒っているのか、怒りを溜めてしまったのか分からない。ゆえに、正しい吐き出し方も、吐き出す対象も分からない。
または、怒りっぽい性格、短気という認識なだけで、特別おかしいという自覚すらない。
その怒りが自分の人生を破綻させ始めた時にようやく気がつくのかもしれない。
人は本当に困らないと本気になれない。
それは誰だってそうだよ。
だから周りにそういう人がいたなら、中途半端に寄り添うのが1番本人の為にならない。見捨てるなら見捨てた方が本人は気付く。
だから、周りにいる人だって自分の生き方の選択を突きつけられているのだ。
捨てる・突き放すのにだって相当な覚悟が必要だろうし。
周りの人
そう考えると「優しさ」って何だろう
仲良し・親密に見える人間関係がそれとは限らない
自分の保身のためにその人に“優しく”し飼い殺し状態だったり
少なくとも自分のために相手に甘くしてるのは絶対優しさじゃないよね
「うん、“優しさ”じゃない。自分のためだよ。」と自覚してそうしてたら、別に何も問題じゃない。別にそれを裁く必要はない。
相手のためなのか、自分のためなのか、その境目を分からず、無自覚に、すり替えつつ関係を維持しているような人が両親だった場合、その子供らや家族は巻き添えを喰らい、人生さえ奪われる。
だからとっても重大なことだと思っている。
うちの両親はこの手の話のお手本になれるくらい仲良し癒着夫婦だった。
だから僕は、結婚や男女の付き合い方に全く良いイメージが持てなかった。それはまた別の機会に書きますね。
とりあえず今回は怒りの話でした。