“僕は虫だから”〜自分の精神を守る自己暗示スイッチ〜

“僕は虫だから”〜自分の精神を守る自己暗示スイッチ〜

寂しいという感情が自覚できず、鬱となって現れる

親が自分に興味関心が無くて振り向いてくれない時

自分はそういう存在なんだ
自分は虫みたいなもんなのか

と自分に言い聞かせれば、受け入れれば、傷つかなくて済む

そうやって自分の精神の崩壊を防ぐ

だがそれによる代償は
それによって失われるものは

人間1人の人生を苦しませるには十分過ぎる代物だった
その名は尊厳、または自尊心

虫として生きる限界

確かに、僕は虫だからと思えばほとんどのことはストレスとして感じず日常を過ごせたかもしれない

しかし大人になるにつれ、物心がつくにつれ、“そうはいかなくなる”

“僕は虫だから”では済まされない現実が突きつけられる

世の中を生きていれば1人の人間として責任を追及されるからだ

よく周りから“たっちゃんはいい人”と言われたものでした。だって虫だから。虫は人様と同じ目線の要求をしないもの。

それに、精神の崩壊を防げてはいたが、厳密に言えばストレスや怒りが溜まっていないわけではなかった

実は感じないようにスイッチをOFFにしていただけで、されたことへの怒り、受けた屈辱、バカにされたこと、耐えがたい寂しさ、全てちゃんとこの胸の中に記憶されていた

人間の心って本当優秀である

なので、このスイッチを切って生きてきた十数年分のエネルギーは確かにこの胸の中に眠っており、ダムが決壊するかのように放出されるのを待っているのだ

感じないために切ってきたスイッチのやり方ももう限界を迎え、自分でももうどうしようもなく、コントロールできず困っている

人によって本当に様々だけど、優しくて強い子ほど、そのダムは大きく、耐えてきた質も量も果てしないものだろう

自分の感情が分からない、でも鬱になる。それはきっとそういうことだと思われる。

人としての尊厳のある人生

そして“自分は虫じゃない”と 尊厳を取り戻すことは果てしない道のりです

それを取り戻せたらやっと自分の人生が始まるというよりは、これまでの過去の自分と向き合うこと自体が人生という感じです。(あくまでも僕の場合です。人によって全く違うと思います。)

悲観するかもしれません。でも本人がそれを望むなら、パートナーが現れてくれると僕は思えます。むしろその時に現れる人こそ、真のパートナーなのでしょう。

あなたの抱えている問題を含めてあなたを見てくれる人が。

この広い世の中、必ずいます。向こうだって、あなたのような人を待っています。

これまでの人生、普通の人達より比べものにならないほど苦痛に耐えてきた中で、もっとがんばれと言うつもりは1mmもありませんが、応援したくなる努力があるとするなら、その相手・パートナーを見つけることでしょうか。

ちなみにパートナーとは、異性とは限りません。友人かもしれない。よくある映画の設定みたいに意固地な老人と無邪気な子供かもしれない。

だけどあなたが自分の過去と向き合おうとした時、1人でやるのはおやめなさい。できるはずがない。もう十分です。1人で辛さに耐えるのは。

悲運なことに

虫としての立ち振る舞い を学び

人としての立ち振る舞い は分からないままなのだ

そこは権利を主張していいんだよ NOと言っていいんだよ というところが分からず

ものごとを大抵、遠慮、迎合、いい人と思われる、という手段で乗り越えてきてしまったから

学生のうちはまだ何とかなったが、大人になって社会に出た途端について行けなくなった。自分のできなさが露呈した。一気に通用しなくなった。

なんて皮肉?なことだろう

人よりも我慢し、人よりも楽しまず、人よりも手に入れられず、むしろ自分から人に“奪わせてきた”のに、それが通用しないどころか白い目で見られてしまうだなんて

なんでだろう、自分はあの人たちなんかよりよっぽど真剣な思いでここにいる気がするのに、あの人たちの方がよっぽど“要領がいい”し、成果を出せている。

なんでだろう、自分は140%くらいの力でがんばっているつもりなのに、あの人たちの60%に敵わないのは。

努力が足りないとか、甘いとか、諦めないでとか、自分に負けないでとか、そういうことじゃないだろう。そういう次元の話ではない。そういう次元の話であってたまるか。

みんなも自分と同じだったら、あんな風に“平然と”やれているはずがない。

どうしてだ、どうしてこんなにも自分はみんなについて行けなくなった?どうしてみんなが平然とできるものが、自分には140%なんだ?

理由はどうあれ、その事実を受け止めるのはショックの連続でした。

自分より“できない人”と会ったことがない

「あぁ、自分はこれほどまでも人よりできないのか…」
「こんなに幼稚なこと、低レベルなことが、自分にはできないんだ…」

そういう意味で、僕は、“自分よりできない人”と遭遇したことがありません。自分よりできない人を見たことがない。

でもそれでいいと妻が言ってくれた。むしろそんな自分を理解し認められる方がよっぽど偉いってね。

「分かりません、教えてください」が言えること

それでいい、よくやったねと

人としての自分は3歳?

僕たちは、自分の本当の姿を見る必要がある

そしてその3歳児な自分に戻って そこからやり直す必要がある

「自分は3歳児」…その方が辻褄が合う部分がある

自分のやれること、物事への取り組み方、3歳児と思った方が辻褄が合う

どういう事かと言うと

集中力がまず続かない。調べ物をする時に、途中で頭がパンクしてハレーションを起こしてしまう。情報の取捨選択ができない。全てピンからキリまで把握せねばと抱え込み過ぎたり、目的と自分の立ち位置を見失う。

本人の中ではまるで調べものをしているの中で“遭難”してるような追い詰められた気持ちになる。「ママー助けてー!」と叫びたいようなヒステリー状態のような。「分かんない!分かんない!どうしよう!どうしよう!」といった具合に。自分の頭の中で迷路に迷い込んでしまう。

これは1つの例で、他にも3歳児たる理由はある。

ただ辛いことだけではない。その3歳児の自分にフィットできると、とても居心地が良い。生きてることにワクワクできるような状態になれる。

そしてその3歳児に戻って、その自分でいて、その自分を伸ばして行くことが、本当の自分を取り戻すということであり、

自分に自信を持ちたいとか、自分を変えたいとか思うなら、ここを経らずしては叶わないと思います。

まぁ、自信を持ちたいとか、自分を変えたいとか、そんなことどうでもよくなるでしょうけどね、その過程で。

上手く伝わっただろうか?