僕の対人恐怖症~人との居方が分からない~

僕の対人恐怖の見解

思い返せば、僕は小学校の高学年の頃からいわゆる“対人恐怖症”という症状があったと思います。(プロフィールにも書きましたが)

そして、「対人において恐怖を抱かなくなりたい」「いつでもどこでも堂々といられる自分になりたい」と、ずっとそう思い続けてきました。誰にも相談せず。

そのためにいろんな本を読んだり、過酷な環境に自分を追い込んでみたりもしましたがどれも成果は出ず、引きこもり始めたわけで。

アプローチ・解釈の仕方は人それぞれだと思うので、全ての人の対人恐怖に当てはまると言い切ることはできませんが、ここからは僕自身の主観で書かせてもらいますね。

あくまでも対人恐怖の一つのパターンとしてご覧ください。

“人との居方”が分からない

僕は生まれてから5歳くらいまででしょうか、親から結構“無視”されてまして、泣いたり困ったりしていても、その感情を放っておかれました。

自分の感情に対して親はこう反応するとか、自分という存在に対して周囲はどう認識しているとか、自然にしてれば親子関係の中で当たり前に学び備わって行くべきものが備わらずに育ってしまったようです。

それにより、“人との居方”が分からなく育ったとでも言いましょうか。例えるなら、みなさんは歩く時に手足の動かし方なんていちいち意識しませんよね?無意識にできるもの。勝手にできるもの。

でも緊張した場面とかでよく、手足が一緒に動いてしまうとか、どうやって動かすんだっけ?と分からなくなったりしますよね。単純に言えばああいう感じです。ああいう風に、“人との居方”が分からない。

人と居て何が怖いの?

一体、人と居て何が怖いの?と聞かれても困ってしまう。本人だって説明できないんだもの。何が怖いのか自分でも分からない。普通に歩くのに歩き方なんて無いのと同じように、人と居るのに居方なんてない。本来は。

だから、当たり前にできる人には、全く意味不明なことだと思います。恨みましたよ、ええ。親を。こんな風にまるで欠陥品みたいに育てられたことをね。そのことはここでは深く書きませんが。

「人との居方が分からない」…どうですか?なかなか的を得た表現だと個人的には思うんですが、しっくり来ますか?

残念ながら「怖い」のは正解

人との居方が分からないということは、安心感がないということ。

つまり人が怖いのは何かおかしいことでもなく、何かを錯覚してるわけでもなく、至極当然ということ。自分は人が怖くても仕方ないということ。

最初は悲観するでしょうし、ショックかもしれませんね。でも自分は価値が無いと落ち込む必要はありません。本当の自分に触れて、本当の自分を知って行った方が何倍も豊かに人生を生きられるはずですから。

それに、人が怖い自分さえ愛せるようになったら、それはそれで勝ちですからね。ステータスにしがみついて必死な人なんかより、本当の自分を知っててその自分を愛せてる人の方がよっぽど心が豊かです。

それにね、その方が良いパートナーに巡り会えるものです。ステータス重視で生きてる人は、そういう人同士で惹かれ合うものです。

僕の見解ではこんな感じです。対人恐怖については、また書いて行きますね。