プロフィール

趣味:映画、ドラマ、漫画、ドライブ

生い立ち

僕は典型的な“機能不全家族”の長男として生まれました。仕事人間で家庭に興味の無い父親と、その父に逆らえず機嫌を伺う母という、ドラマなどでよく見かける夫婦関係を軸とした家族でした。

母いわく、僕は泣かない・手のかからない・お利口な子だったそうですが、それは環境がそうさせたのであって、本当はもっと感情を出したかったはずです。

たまたま物置から出てきた昔の8mmビデオの映像を観たのですが、当時1歳の僕はすでに感情を失った不自然な子供に見えました。

そんな家庭の中に僕の居場所はありませんでしたが、僕は自分が明るく振る舞うことで、親の気を引いたり家族という枠を保とうとしていたようです。

学生時代

小学校

小学校4~5年くらいから対人恐怖の症状が出始め、同級生たちと居ることが辛くなって行きました。

理由は分からないけど何故か皆が大人に見える…。何だろう、みんなと居て感じるこの差は。僕は自分が感じる劣意識や焦燥感を隠しながら、皆の輪から落ちないよう必死でした。

基本的にNOと言えず、嫌なことをされたり、からかわれても「やめて」と言えない僕。卒業する頃には周囲から相当舐められていて、いつイジメになってもおかしくない状態でした。

というか、“ああこれはイジメられているんだ”と僕が思えばそれはもうイジメだったのかもしれません。

「自分がイジメられている」という事実が恐ろし過ぎて、「皆からされてる扱いを僕は嫌がってない。」「仲良し同士がじゃれてるだけ」と自分に言い聞かせ、周囲にアピールすることでそれを防いでいたような気がします。

なんか書いてて自分でも泣けてきます…。

中学からのテニス部

2つの小学校が1つの中学になるから、メンバーがある程度リセットされる。「このキッカケで這い上がるしかない」という悲壮感に満ちた思いを胸にテニス部に入部しました。

入部した時から同級生らとは練習への姿勢が違いました。「テニスが上手くなれなければ僕に明日はない」という思いでやってましたから。

そのおかげで練習ではある程度上手にできたものの、試合になると「皆に見られてる」というシチュエーションに自意識が暴走し、頭が真っ白・パニックになり、「この場から存在自体消えてなくなりたい」と本気で願うような状態で、全然ダメでした。

テニスは大学を中退するまで8年間続けたことになりますが、その神経症はずっと改善されず、この悔しく無念な気持ちは一生忘れないでしょう。今でもよくテニスコートにいる夢を見ます。

いわゆるチャラい選手というか、“僕なんかよりよっぽどリラックスして実力を発揮できてそうに見える選手”を試合会場で見た時は、悔しさを通り越して虚無感に包まれました。

こんな経験なものですから、努力して勝利を掴むようなサクセスストーリーがあまり好きになれないんですよね…。

高校

小学校の頃から感じていた“皆との差”はますます大きくなり、もはや“追いつきたい”という次元の話ではなく、「居るだけで苦しいこの地獄から解放されたい」という悲鳴だけでした。

対人恐怖が強過ぎたので、毎朝「これは現実ではない」と意識を麻痺させてから教室に入ってました。学校が終わる頃には神経が疲れ果てて、「やっと一人になれた」とホッとする日々の繰り返しで、「死んだ方が楽だ」と自然にそう思えました。

周りの皆が浮かれ気味な卒業式の日、“お祝いに”と寄った帰りの寿司屋で僕は「やっとこの地獄が終わる」という虚しさと安堵の入り混じった気持ちで、寿司を食っていたのを覚えています。「何がお祝いなものか」。

何か特別決定的なイジメを受けたわけではない。けれども「死んだ方が楽だ」と思うくらい毎日繰り返される対人恐怖が辛く、高校生活は僕の人生で最も辛い期間だったかもしれません。

不登校にはなれませんでした。「自分が不登校になる」という事実が恐ろし過ぎて。それほど「そんな自分になってはならない」という強迫観念が強かったのです。

学校行きたくないなら行かなくていいんだよ。」もしその時、親身になってそういう選択肢を示してくれる人がいたら違かったかもしれませんね…。

大学

大学1年の5月、初めて心療内科というものに行き“診察”してもらったのですが、その時の先生の素っ気なさ、心へ寄り添う気のなさは今でも覚えています。

“そういうところ”に行くのだって怖い。「自分はそういうことで悩んでいる」と人に打ち明けるのだって怖い。だけど自分の人生・大学生活がこのままじゃままならないから勇気を出して、決死の思いで来ているのに、そういうこちらの切実な思いには一切気付いてもらえませんでした。

抗不安薬を2週間分処方され一応飲んでみましたが、特に効果を感じることもなくそのまま終わりました。

大学でも教室に入るのは辛く授業を休み始め、単位が足らなくなり退学しました。

社会に出てから

これまで経験してきた仕事は、引っ越し屋、ラーメン屋、自然学校スタッフ、工場系、日雇いなど。どの職種でも神経症と対人恐怖が辛過ぎて、まともにこなせませんでした。辛くて怖くて逃げ出したこともあります。その中の一つ、日雇いで働いてた頃のことを書きます。

日雇い労働者

人間関係、雇用関係に恐怖が強かった僕は日雇いで仕事をするケースが多かったのですが、だいたいの現場は工場や倉庫や引っ越しなどの力仕事系で、汚い・暗い・臭い、人が荒いものでした。

自分の中の恐怖の反応は凄まじく、まるで息を止めて飛び込むかのように決死の覚悟で挑んでいました。そういう場所で働いている人たちは毎日変わる日雇い労働者の「足手まとい加減」にイラつく人も多く、キツく当たられることは珍しくありませんでした。

肉体的にも過酷でしたが、それよりも、こんな場所でしか働けない、こんな場所の仕事さえ満足にこなせない自分が惨めで、精神的な落ち込みの方が辛かったです。

これまで何か所の現場に行ったでしょうか。今でも工場や倉庫の外観を見ると当時の感覚を思い出します。

引きこもり時代・夜の街

執筆中

現在

心理カウンセリング事務所マザーアースの浅野順子と出会い、結婚。生まれて初めて自分の理解者と呼べる相手でした。僕が初めて感情をぶつけることができたのが彼女でした。

それは僕にとって何事よりも価値のある大切なものでした。それさえあれば他に何もいらない。逆にそれが無ければ生きている意味もない。そんなものでした。

そんな彼女と日々、一瞬一瞬のことを相談し、寄り添いながら人生を送っており、現在は漫画制作とHP制作、当サイトでの相談を兼業しています。